2016/05/12

平穏に死にゆく権利


 あると思いますか? 平穏に、死にゆく権利。
 青木無常であります。



天上


 すなわち、安楽死。



 たとえば数ヵ月後に迫る死を告げられ、苦痛を和らげるすべもないと知らされたら?

 もしそういう状態で、これ以上「生かされて」いたくないと安楽死を望んでも。

 日本の法律や医療常識や周囲の人間の常識からしてその望みがかなえられることは期待できますまい。やれやれであります。



  ☆死を選ぶ権利


 耐え難い苦痛にさいなまれながら目前の死を回避するだけのために、ただ生かされつづける状況など歓迎できる人間はあまりいないのではないでしょうか。

 それでも家族や友人はあたう限り生きていてほしい、そう願うのもまたあたりまえの感情ではあるのでしょうけど。

 そんな状況下で、この苦しみから解放してほしい…そう願うのは、倫理的に悪。…なのでしょうか。


NEWSポストセブン 2016.04.30 16:00
安楽死選んだ女性 最後の16時間の一部に密着
http://www.news-postseven.com/archives/20160430_400786.html


平穏


 こちらのニュース記事は『SAPIO』(2016年5月号)という雑誌に掲載されたルポルタージュの一部が掲載されているようです。

 ジャーナリストの宮下洋一さんは、自殺幇助が合法化されているというスイスで、自殺幇助団体ライフサークル代表の医師から取材協力を約束され、さまざまな人々の死に立ち会っていらっしゃるとのこと。




  ☆余命半年、耐え難い苦痛とともに死にゆく女性の選択


 ニュース記事に掲載されているのは、余命半年と宣告された膵臓癌に苦しむ68歳(取材時)の女性の、末期。

 取材日の翌朝に彼女は「自殺幇助」が予定されていました。



 なぜ彼女は死を選んだのか。
けれど死が怖いんじゃないのよ。この耐えられない痛みとともにじわじわと死んでいくことが、私には恐怖なの

 読みちがいの愚を犯す可能性をあえておして自分におきかえてみれば、回復する見込みもないまま日々苦痛にさいなまれて死を待たなければならない状況など考えるまでもなく最悪の事態のひとつであることは明白。

 苦しまずにその人生に幕をおろしたい、と願うのはむしろ当然のことなのではないかと思います。



旅立ち


 彼女が死を待つ最後の場所は
バーゼル郊外にある田舎町にひっそりと佇む高級ホテルの一室
72歳の夫との滞在でした。

 自殺幇助が実行されるのは翌朝8時半。

 その半日ほど前に、取材は行われたとのこと。


  ☆動くだけでも激痛


 記者はまずどこに腰をおろせばいいのかとまどいます。
 そんな彼に彼女は
「好きなところに腰掛けていいわよ。私は動くと激痛が走るので、この格好を維持したいだけなの」
と気づかいの言葉をかける。
 モルヒネを使用していたため、取材時の痛みは「10段階に分けると3」
という状態のもと、老女は取材者の質問に淡々と答えていく。


  ☆緩和ケアは彼女にとって無意味


 明日ほんとうに死んでもいいのか、という質問には、躊躇のないきっぱりとした返答が。
「もちろんよ。私自身の死ですから。なぜ、あと2か月も耐え難い痛みを我慢して生きなければならないの。耐え抜くことによる報酬でもあるのかしら」

 夫婦はともに元医師で、そのときの状態も訪れるはずの最期も冷静に把握していたようです。
「とにかく、この痛みから早く逃れたい。痛みが私の体を侵食していくの。元医師として、どんな結末が待っているのか、良く分かっているつもりよ」

 患者の痛みを和らげる「緩和ケア」は、彼女にとっては「単なる嘘」にも等しいとのこと。


  ☆夫の思い


 彼女の病を知らされた時、どんな思いだったかとの問いに夫は
「単なる冗談だと思いましたね。私が嘘だと笑っても、彼女の表情が変わらなかった。それは、とてもショックでした。この病気はとにかく先が短い。どうしたら良いのか、分からなかった。医師だったから理解できるはずなのに、身近の人間だとそれができないんです」
と答えている。

夜


 さらにそれを乗り越えたのは
「時間ですよ、ええ、時間。時間が私を苦しみから救ってくれたのです。でも、もっと長く一緒にいたかったなぁ」
という返答。

 妻はその述懐に
「私もよ……」
と、かすれた小さな声でつぶやいたそうです。


  ☆その時は夫婦だけで迎える


 その後、写真を撮るくだりを経て取材者は辞去。

 最期を看取るのは夫だけであってほしいという夫人の希望に従い翌朝、取材者は事後に夫と再度面会する。
「私は大丈夫ですよ。こうなることは、覚悟できていましたから」

 そう告げる夫の様子は想像していたよりも落ち着いていて、妻がこの死に方をしたのも正解だったと今は考えていると口にする。

 ストッパーを開けた時、彼はブンヌの手を握り、お互いに涙を流したという。彼女が喉元に異変を感じた時、「これで最後よ」と、夫を見て囁いた。

 そんな妻に夫は最期にこう告げたそうです。
「きみはこれから長い睡眠に入るんだよ。楽しい人生をありがとう。またどこかで会おう。愛しているよ、と……」


  ☆死を選択する権利は、われわれにはないのか


 家族関係に若干難がありそうな部分を除けば、おおむね平穏な死を迎えられた例なのではないかと思います。



聖堂


「自殺幇助」そのものにかかる費用もあるのでしょうが、もし耐え難い苦痛と約束された近い将来の死をつきつけられたとしたら、こういった選択肢も可能性の中に生かしておきたい、というのが私の感想。

 むろん、現実に死を眼前につきつけられたとしたら、そのときに自分がどう感じるかなど想像の域をかけらも出ない。

 だからあくまで可能性のひとつとしてではありますが。



 法律的に、われわれ日本人がスイスにいって「自殺幇助」を依頼することができるのかどうかはちょっとわからないのですが、まあ現実にその必要が出てきた場合は本気になって調べるかもしれません。



 自殺がひとつの「選択肢」であるという意見は珍しくはない…といってしまってはあまりにも語弊がありすぎるのかもしれませんが。

 どうしても、どうしてもほかに道が見つからないのであれば。

 それも選択肢のひとつとして心のなかに用意しておいてもいいのでは、と私はずいぶん以前から思っておりました。

 だから、ほかの選択肢がないかどうかも、もう少し検討してみてもいいのではないか、とも。



明日


 ニュース記事の女性の場合は選択肢はきわめて限られているので、それでも自殺はいけないなどと独善的な台詞を平気で口にできる人非人もそれほど多くはないだろうとは思いますが。

 そうでない場合、客観視できる立場にある人間からみればいくらでもやりかたがあるようにしか思えない場合は。

 やはり自殺志向者にとっては「無理解」とまったく同義の「自殺は絶対にいけない」という意見が世の常識人の常識的な、まっとうな意見なのではないかと思います。

 それに疑義を私は表明する。


  ☆自殺する権利は本当に、だれにもないのか?


 自殺する権利なんてだれにもない、あってはならない。

 そう断言する心理ももちろんわかりますが。

 そういう強硬かつ独善的な態度そのものが、自殺志向者の背中を一押ししてしまう可能性も考えてみたほうがよろしいのでは?

 …と。

夜明け


 もちろん疑義の根拠はそれだけではありませんけど、あまりにも重くなりすぎて今の私の手には余りすぎるので、それはつぎの機会に。

 つぎの機会があるかどうかは気分次第でございますがね。(`▽´)



 もう充分に重すぎるし本日は以上。
 それでも最後まで読んでくれてありがとう。
 それでは、また~(^_^)/~~




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